unsui法純の「波蘭便り」

皆様、こんにちは、法純と申します。
「坐禅の波動というのは 物理的空間を離れていても
ほんとにあらゆるものに その魂を直撃する 地球の裏側まで」
私がポーランドで星覚さんと出会うきっかけになった村上光照老師の言葉です。

私の出身は地球の裏のポーランドです。
日本の空の遥かに遠くこちらまで禅の波動が至り、私の心を直撃しました。
全ての波は結局海に還るはずなので、波蘭便りを皆様に送らせて頂きたいと思います。
もしかすると、こちらの波動があちらの魂を直撃するかもしれません。

本日は「従容録」の四目の「世尊指地」という本則について少しお話させて頂きたいと思います。「従容録」は「碧巌録」と共に、禅門の二大禅録です。「従容録」は曹洞宗で重視され、「碧巌録」はおもに臨済宗で尊ばれています。 

しかし、本則自体に行く前に、先ず示衆を見てみましょう。


一塵纔かに挙ぐれば大地全く収まる。疋馬単槍、彊を開き土を展ぶることは、便ち可なり。処に随って主と作り、縁に遇うて宗に即する底なるべし、是れ甚麼人ぞ。


禅の言葉で言うと、「一即一切一切一即」と言います。この宇宙の全てのモノは様々な因縁によって表せるという意味です。全てはつながっているということです。最初には必ず原因があります。私の故郷のポーランドでは、国民のほとんどがカトリック教徒です。そのため子供の時、日曜日のミサによく行きました。その時、よく聞いた神父さんの説法に「我々の世界ができる前には、なにもなかった。すべては神様によって造られた」というものがありました。しかし、釈迦尊の教えは違います。仏教では因果という原因と縁起という概念がありますから。現代の日本語の中にも「縁起をかつぐ」とか言葉がありますけど、元々の意味とまったく違います。

17世紀にイギリスにWILLIAM BLAKEという詩人がおりました。私が大学の時、彼の詩が大好きでした。彼が次のようなポエムを作りました:


一粒の砂に世界を 一輪の野花に天界を見る 一握の中に無限を 一時の中に永劫を握る

我々がもしこういったポエムを読んだとしても、本当の意味を体験することは難しいです。素晴らしい言葉や本当に感動しましたなどと言いますが、実は、どんな話かわからない場合もあるのではないでしょうか。

日常生活のなかでは、我々には縁起の法則が見えません。しかし、これはずっと働いています。全てはつながっています。これは世界の本当の働きです。
簡単な例を出すと、毎日、朝、起きて、うちを出てから、バス停にバスが待ってます。これに乗って仕事に行きます。しかし、もし、運転手が寝坊してしまったら、バスに乗ることが出来ず、仕事にに遅れます。バス機械もわたしたちにとっては当たり前のものだけど、実は、毎朝、誰かがガソリンをいれなきゃいけないし、きちんとチェックしているじゃないですか。かれらの仕事のおかげで、私達が8時から仕事ができるために。これは全部宇宙の働きです。縁起ということです。

しかし、我々はこれらのことが見えていないから、全てのモノを結果で判断してしまう。原因についてまったく考えていません。例えば、午後6時に渋谷のハチ公口で友達と約束しました。しかし相手が20分遅れた。その場合の私たちの反応は怒りです。だって、僕たちの時間は大切と思うからです。遅れる理由は人身事故かもしれない。

道元禅師も正法眼蔵随聞記に「人の心、元より善悪なし。善悪は縁に随っておこる]と言われました。

従容録に戻りましょう。

「世尊指地」という本則ですね。次のように言います。

挙す。世尊、衆と行く次で、手を以て地を指して云わく、此の処、宜しく梵刹を建つべし。帝釈、一茎草を将って地上に挿みて云わく、梵刹を建つること、已に竟んぬ。世尊、微笑す。


世尊は地を指して、手を持ち上げて、この処で寺を建てましょうと。帝釈は梵刹もう出来たと。この梵刹はいったいなんでしょうか。梵刹は梵語で「brahmaksetra」ということです。つまり、僧侶達が修行している場所の意味です。

しかし、こちらは、もちろん、寺院という意味ではないです。建物ではありません。梵刹とは宇宙のことなのです。この宇宙は仏様の一体です。仏身です。

盂蘭盆普回向にも 「佛身は法界に充満し、普く一切群生の前に現ず。これはどういう意味なんでしょうか。

仏教では人間はみんな必ず佛性の素質を持っいると言います。この佛性とは、簡単に言うと成仏の種です。しかし、それにもかかわらず、誰にもこの佛性が見えるわけではありません。 これは梵語では「avidya」と言います。日本語だと「無明」という意味です。本来の佛性を離れるということです。

無明心の動きで人間は本地、要するに仏心が見えず、妄想の中で生活を送り、充実することもできない。これは梵語で「dukkha」と言います。つまり、「苦」― 満足できないという意味ですね。
私達がなぜ苦労していると言いますと、我々が二元的に世界を見るからです。今にある世界と自分の間に隔たりをつくってしまいます。
いつも、私とあなた、悪い、良い、友だち、敵のようなグループで生きている。将来のこと、過去のこと、いろいろな考えをもって、それで本来の佛性から離れます。これは無明です。

しかし、基本的にはこの考えは存在していない。ただ概念に過ぎないです。例えば、父と息子の例を見てみましょう。息子がないと、ちちもない。父があにと息子もないでしょう。病気の概念がないと、健康の概念もない。など。要するに、世界は 相対的です。縁起によって起こります。

我々の人生と同じです。

命とは生まれる瞬間から死ぬ瞬間までというわけでなく、永久の流れということです。今の命は前世の原因の結果なんです。今の命は来世の原因なんです。
瞬間ずつ命ができている。瞬間ずつこの生命は全ての宇宙の反照です。今、ここ。これ以外何もないです。

われわれが頭で生きているから、生命の働きがまったくわかりません。

悟りを開いた時、全ての宇宙は一茎草に反射されています。

この状況は法身と言います。梵語だと「DHARMAKAYA]という意味です。そのDHARMAKAYAはずっとあるけ、自分の目とおなじいように人間はこれが見えません。
去年、私は村上光照老師とのNHKインタービューを日本語からポーランド語に翻訳することになりました。老師は静岡の山に住んでおり、只大根と玄米食べて、ずっと座禅に組んでいます。老師がインタービューで大自然について述べられた。

自然はお釈迦様のご自身のことです。森は「叢林」と言います。林の木や草が調和しあっている。森というのは木だけではないんです。草も一緒で森なんです。放牧すると、草を食べるでしょう。森が全滅する。一体なんです。木と草は「僧伽」と言います。一つの生命体です。人間の体と一緒です。左手と右手が協力する。心臓や肝臓やみなが一つの僧伽持っている。

しかし、この宇宙、つまり「梵刹」はもう一つの意味があります。これは帰依という意味です。

仏教徒になりたい時、必ず三帰依をしなければいけないです。

南無帰依仏、

南無帰依僧、

南無帰依法。

そう考えると、佛、法、僧はずっとこの宇宙におられるとわかります。
どこにも行かなくてもいい。何を探さなくてもいい。

今、ここ、帰依できます。

他の帰依が必要ではないです。

お寺に行ったら、美しい仏像と菩薩像が見えるけど、これはけっして帰依ではないです。これは本当の帰依の意味を思いさせるものなんです。最近、中央線のCMでは日本の仏教のCMが流れている。しょっちゅう弥勒菩薩像がでてくる。
しかし、仏像はお釈迦様の教えを思いさせるものです。ただ観光の名物ではないです。こういう仏像を見たら、お釈迦様の例について考えて、自分の人生も更によくしたいと。残

念ながら、今、お寺に行っても、お釈迦様のことを知らない人もいるらしい。ただ木造の仏像の姿に過ぎないです。

ポーランドのポズナン市という街に圓学院という禅センターがあり、時々、初者に座禅の組み方等を教えてあげます。禅道には仏像もあります。みんな入ってから合掌するべきです。ほとんどはカトリック教に育てられ、御釈迦像の前合掌するように言われた瞬間、とても嫌な顔をしている。 なぜかというと、これから、キリスト教の神様の代わりに、釈迦尊の神様がいると思っているらしい。彼らには、本当の帰依の意味がわかりません。
帰依というのは、自然の宇宙の法則に従うという約束することです。ずっとこの法則に守られており、安全な状態となります。

仏国寺というお寺の原田老師は昔、こうおっしゃった。読ませて頂きます。

全て良し。
お釈迦さまの御言葉です。全ては常に全てによって守られ、一つは一切によって、一切は一つによって、全ては全てによって守られ、常に常に円融し、永劫に不変であり不滅であります。全ては万徳であり円満であり、御一人御一人の真実であり、大安心の根元であります。この真実のあることを一大事因縁と申します。

その一大事因縁とは前に申し上げた宇宙の法則のことです。縁起の意味ですね。事実のことなんです。

良寛という禅僧も


花は無心にして蝶を招き、蝶は無心にして花を尋ぬ、花開くとき蝶来たり、蝶来たるとき花開く、吾また人を知らず、人また吾を知らず、知らず、 帝の則に従う
 


しかし、我々がこの単純な宇宙の帝則を「快適さ」と間違えているかもしれない。無心のかわりに、頭で宇宙の有様を自分のルールに従いながら変えたいです。その結果で、人間が苦しんでおり、「全てよし」という命の本質が見えない。我々がいつも世尊の梵刹の外で待っており、入ることが出来ません。
いつも頭で解説を探しながら、どこでも、自分の「我」を無理やり入れてしまいます。

西洋の考え方では「我」つまり「私」は一番大事です。例えば、英語かドイツ語で「私」が必ず大文字で書きます。私と世界は対面みたいです。その「我」のせいで梵刹の門が最初から開いていると全く見えません。

座禅をしたら、私達が全てのモノと一緒になれ、全ての宇宙と一つになれ、実は全てのモノは「無我」とよく悟ります。

その時、初めて、今、ここ、世尊が大迦葉の前で持ち上げた花、又、帝釈が持っていた一茎草の中には全ての宇宙があります。全て良し。
その時、初めて全ての存在は全体です。一体です。

誰も自分の足か手を切らないでしょう。自分の手、足に「あんたってバカ」も言わないでしょう。なぜかというと、自分の体だから。

同じように、悟りを開いたら、一即一切一切一即のことを体験し、全ての存在は私の子供になります。

母と同じように皆の子供を守ってあげたいと思うようになるでしょう。

最後に吉野弘さんの詩をコピーペーストします:


生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻あぶの姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も  あるとき
誰かのための虻
あぶだったろう

あなたも  あるとき
私のための風だったかもしれない

Daruma
(C) 如玄和尚

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