unsui法純の「波蘭便り」

一境四心

この間、中国からのお坊さんの友達と話しました。彼はもう23年間日本に住んでおり、日本語は日本人よりうまいと思う。数年前、彼が中国人の友人と一緒に日本のデパートでエレベーターに乗った時、普通の人の他にピンクの服を着た可愛いお嬢ちゃんもいた。 
彼女は「これから上に行きます」や「ドアが閉まります」など優しく教えてくれた。外国人は彼女を見たら、彼女の役割をさっぱり分かることが出来なかった。二人でエレベーターを出た途端、怒った彼らは

「だって、俺はバカじゃないでしょう。ドアが閉まるって当たり前だよ!5階のボタンを押して、上にいくって決まっているじゃない。彼女なんて別にいらないじゃん」

「まあ、そうなんだけど、可愛かったじゃん」と友達が言った。

「覚えてない」と。

僕たちが話しているとき、近くに立っていたお坊さんはびっくりした顔をして「ええ、外国ってさ、エレベーターに女の子がいないの?」と聞いた。


人間は世界を自分の心の立場から認識している。自分が知っている価値観でその世界を判断する。箸を使わない人や、エレベーターの中に可愛いお嬢ちゃんがいない、などとは考えない。たとえば、うちのおばあちゃんはものすごく厳しいカトリック教徒で、彼女にとって、世界には神様について聞いたことがない人がいるということを想像することができない。

二年前に、ツーリストガイドとして7人のポーランド人と一緒に日本に来たとき、彼らはどうして日本人はそんなにおじぎをするのが理解できず、畳の上に寝るのは信じられないことでした。

まぁ、カルチャーショックは別にいいんだけど、問題なのは、自分の考え方で外の世界を判断し、ある事実の上に自分のラベルを貼ることなんです。
もし、電車でピンクのハットを着ているお爺ちゃんをみたら、「この爺ちゃん、頭は大丈夫かな」と思いながら、爆笑するほど我慢出来ない場合もあるのではないでしょうか。

人間(主観)は客観世界(対象)を自分のわがエゴの立場からその世界を体験している。どんな状況があっても、最初に、いつも自分なんです。

もし、誰かが電車に乗っているとき頭が痛かったなら、周りにいるうるさい若者を殺したいと思うかもしれない。どうしてかというと、「俺の頭が痛い」から。俺。俺。俺。。。

また、映画が終わってから、映画館を出て、パートナーに感想について聞いたら、つまらなかったって答えた。その時ものすごく頭にくるじゃない。だってすごい面白かった!
つまり、エゴが強いからです。


そういう状況では客観世界について考えられず、自分の主観だけでなく、他の無量の主観も存在し、みんな同じ世界に存在しているけど、みんな全然違う事実を経験しているということを理解できない。

仏教では「一境四心」といいます。

簡単に言うと、同じ環境でも、四の人にとって全く違うことだという意味なんです。言い換えれば、「一水四見」ということです。同じ水はいろいろな生き物にとって違うものなんです。天部に取って水は真珠のところ、人間にとっては飲み物、餓鬼にとっては血膿、魚にとっては宇宙というものなんです。

同じ者はいろいろな人によって見られれば、違う形になります。


この間、友達の家に誘われた時、彼がちょうど恋人にふられれ、不機嫌でした。夜、僕が彼の家でコーヒーを飲もうとすると、テーブルの上にとても美しいコップが置いてあるのにを気づいて、そのコップには赤いハートが彫られていました。しかし、彼がこのコップを見た瞬間、顔の表情が変わって、窓からかわいそうなコップを捨てようと。
元ガールフレンドからのお土産でしたから。

他の友達がこの間フェイスブックのアカウントを始めたけど、ぜったいコメントとか自分のアップロードとかをしないという約束をした。彼はフェイスブックって中毒みたいだから、自分が常用者にならないように使わないと。

さらに簡単な例を出すと、タバコ。沢山の人はタバコを捨てたいけど、どうしても捨てることができないらしい。かれらはいつも「タバコは嗜癖だからやめることが出来ない」と文句を言います。

しかし、違います。

タバコとかフェイスブックとかはべつに悪いものじゃないと思われます、僕には。有罪なのは人間の心なんです。人間の心はどうしてもモノを掴んで、なかなか離すことができないらしいです。そう言う癖だから。

モノそのものはいいとか悪いとかではないと思います。使う人次第です。
タバコはどうかわからないけど、フェイスブックの場合は、この道具を正しく使うと、他の人を手伝うことができるんじゃないでしょうか。

ナイフと同じように、刺殺のためにも使えれば、飢民を食べさせるためにも使えます。

仏教ではよく「世界はこころの反映である」と言います。

時々、仏教の哲学に興味をもつようになっている人は心の外には何も存在しないという風に考えがちです。そういうわけではないです。一番いい証拠なのは、スピードをだして、壁にたいして自分の頭でぶつかることです。すると、壁が存在しているかどうか自分でよくわかる。

世界は自分のこころの反映だとは、人間はいつも客観的な世界を自分の情感、考え、意見、想像を通じて、観する。 初めて誰かに出会った時、もし、相手が冷たく紹介したら、もうこの人との友達になれないと思っている人もいる。しかし、どうしてそんなに冷たくされたのかと全然考えないです。だって僕は別になにも悪いことをしなかったでしょう。もしかして、さっきお医者さんにがんがあると宣告されていたり、妻に離婚されたりしていたかもしれません。

でも、人間はよ「it's not my business」という風に考えています。

全ての世界は我々の鼻の周りに回っている。 中にはエゴです。

しかし、一水四見ということについてよく考えて、自分の人生でこれに従うようになったら、初めて人間が認識している世界の外に、他の世界が沢山あると悟るかもしれない。見える世界もあれば、見えない世界もあります。

その全部の世界は並行的に存在します。


仏教では、よく人間を星に喩えます。正午の時、青空をみたら、星があまり見えないでしょう。宇宙には、人間は同じように少ないです。しかし、夏の夜中同じ夜空をみたら、ビックリするほど星がいっぱいあります。
人間以外のほかの生き物は夜空の星のように沢山生きています。という喩えがあります。


自分の部屋でも、椅子に腰を掛けているとき、お尻の下の、椅子の木の中に数えられないほどとても小さい生き物も生きています。しかも、人間の体の中にも、不思議な万数の菌がいます。かれらのおかげで、人間の生体はバランスをとることができる。

宇宙には、人間は一番大事な存在者だということはけっしてない。しかも、客観的な世界を好きにして自分のために使う権利がない。

しかし、一番知能的で、意識を完備した存在者として、特に、仏教者として、自分のトイレだけでなく、宇宙の隅から隅にまでいる生き物のことを大切にするべきだとは思います。

だから、エレベーターに乗って、可愛いエレベーターガールを見たら、これは彼女の世界だとわかります。


毎日毎日何回も上と下に行く宇宙なんです。


法純拝


VISIONS

2011/05/30

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